サンティアゴ巡礼路は、地図で見るより、靴底で読む本に似ています。スペイン北部を西へ進む約八百キロの道。中世から続くカトリックの聖地巡礼ですが、現代は宗教を越えて、世界中から歩く人が集まります。
この道は、五十代の独身者にとって、特別な意味を持つことがあります。離婚、死別、子離れ、退職。人生の大きな区切りを迎えた方が、静かに「自分だけの歩幅」を取り戻すための、四十日前後の時間です。
フルで歩くか、一部を歩くか
フランスのサンジャン・ピエド・ポーから、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで、フランスの道と呼ばれる古典ルートを全部歩くと、およそ三十五日から四十日かかります。一日平均二十キロから二十五キロの歩行です。
初めての方、あるいは仕事のお休みが限られている方には、最後の百キロだけを歩く「サリアからサンティアゴ」の五日〜七日コースがおすすめです。このコースでも、公式の巡礼証明書は発行されます。
余裕のある方は、レオンから歩く二週間コースも人気です。これで古典ルートの後半を体験できます。
五十代の体に、合った準備
歩くこと自体は特別な体力は要りません。ただし、五十代以降の方には、出発前の三ヶ月間、週に三回以上の散歩(一回一時間以上)を習慣にされることを強くおすすめします。
靴は、現地調達ではなく、必ず日本で一ヶ月以上履き慣らされた登山用のトレッキングシューズを。水膨れを防ぐインナーソックス、膝のサポーター、軽量のレインジャケットも必須です。
荷物は七キロ以内を目標にしてください。出発時に八キロあった方が、ゴールまでに三キロ捨てた、という話をよく聞きます。
一日の、基本リズム
朝六時半から七時に宿(アルベルゲ、またはオスタル)を出発。十一時頃に最初の休憩とおやつ。十三時頃に、その日の目的地の手前の村で昼食。十四時から十五時に宿に到着。シャワー、洗濯、仮眠、夕食、二十一時就寝。
このシンプルなリズムが、十日ほど続くと、心が不思議に静まります。毎日「今日のゴールまで歩く」という一つの目的しかない生活は、現代人にとって貴重な体験です。
宿の選び方:アルベルゲと私営宿
アルベルゲは巡礼者専用の安宿で、一泊十ユーロから十五ユーロ程度。ドミトリー形式で、上下のベッドが並びます。五十代で初めての方には、最初の数日はアルベルゲで巡礼の空気に慣れ、後半は個室のある私営宿(三十〜五十ユーロ)に切り替える、というハイブリッドが実用的です。
いびきが気になる方、熟睡が必要な方は、最初から個室中心で組まれるのも全く問題ありません。大事なのは、歩き続けられる体を毎晩回復させることです。
一人で歩く、という意味
巡礼路では、毎朝、同じ宿から出発する方が自然と似たペースで前後になります。最初は一人で歩いていても、三日目くらいから、顔見知りができ始めます。
五十代の独身者として歩かれた方から、こんな言葉を聞きました。
「最初の三日は、前の結婚のことばかり考えていました。四日目から、歩くこと自体に意識が集まり始めて、十日目には、自分が何を考えていたのかさえ思い出せなくなったんです」。
歩くことは、考えることを一度外に出す作業です。頭で整理できなかった感情が、膝や足首の痛みと一緒に、少しずつほどけていきます。
途中で出会う、他の歩く人たち
巡礼路には、世界中から五十代、六十代の独身者が集まります。ドイツの元教師、オーストラリアの退職された看護師、韓国の離婚直後の方、アメリカの寡婦。皆さん、それぞれの人生の区切りを抱えて、この道を歩いていらっしゃいます。
夕食のテーブルで、何気ない会話が、驚くほど深くなることがあります。「なぜここを歩いているのですか」という問いを、誰もが自分の言葉で答えます。評価ではなく、共有。これが巡礼路の空気です。
恋愛目的ではありません。けれど、帰国してから、現地で出会った方と文通が続き、数年後に再会されるケースも珍しくはありません。焦らず、自然に、ということです。
サンティアゴに到着した日
最後の坂道を上り、大聖堂の前の広場に立たれたときの感覚を、多くの方が「予想と違った」とおっしゃいます。達成感より、むしろ空白感に近い。二週間から四週間、毎日歩くことを目的に生きてきた体が、急に歩く必要のない場所に立たされる、その不思議な感覚です。
大聖堂のミサに参加し、巡礼証明書を受け取り、近くのカフェで一人でコーヒーを飲む。多くの方が、この時間、何かが静かに自分の中で落ち着くのを感じられます。
帰国後の、静かな変化
巡礼から戻られた方々が口を揃えておっしゃるのは、「日常の速度が遅くなった」という感覚です。電車の中でスマートフォンを見る時間が減り、食事の一皿を味わう時間が長くなり、前のご家族のことを思い出しても、前ほど痛くなくなる。
これは、巡礼路が何か魔法を起こしたわけではありません。毎日歩くという行為が、体と心のリセットを静かに行っただけです。
最後に、一つの誘い
いきなり四十日は難しい方も、七日間の百キロコースなら、夏期休暇や有給で手が届きます。来年の五月か九月、空港の予約画面を一度だけ開いてみてください。
道は、あなたを待っています。走るのではなく、ただ歩くだけで十分です。